広小路に生きる人たち

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広小路に生きる人たち

(「(1993年 vol.25)掲載)

C & D(1993年 vol.25)に掲載されたものです。年々活気を失っていく名古屋市中区の広小路通り商店街について、調査・レポートしたものです。

C & Dは、地元同人誌として、建築をはじめとする様々な文化活動に対して、発信を行っている雑誌です。

 

広小路に生きる人たち


「都市計画なんて要らない」。これが、私の言いたいことである。

見た目に綺麗な広小路は、「お仕着せの町並み」となり、以下の二つの致命的欠陥を誕生させることとなった。

1. 歩行者の歩行行為以外の行為の禁止

2. 住民の街づくりに対する参加意識の剥奪

3. 歩行者の歩行行為以外の行為の禁止
1993年5月31日 18:30

伏見あたりの広小路通りにて。ここは、真っ直ぐ前を向いて、もくもくと歩くサラリーマンとサラリーウーマンに占拠されている。たしかに、広小路は、早足で歩くのに都合が良い。直線的で障害物もない。私のようにキョロキョロしながら歩いていると、たちまち人にぶつかってしまう。最低制限時速四・五キロの道である。立ち話をする余地もなければ、休憩する所もない(交差点の車止めは、ワザワザ尖った形にして、人が座るのを拒絶している)。「もくもくと歩きなさい。ここはビジネスの街なのだから」ということか...

一時間の間に、「広ブラ」をしていたのは、一組の老夫婦と三人の外国人旅行者ぐらいなものだ。そういえば、ここでは、ラテンの露天商の姿を見かけない。取り締まりが厳しいのだろうか? かつての「屋台」も、こんな具合に排除されていったのだろうか?

道で物を売ることができない、物を食べることもできない、店をのぞくこともできない、立ち話もできない、休むこともできない、ただ歩くための道。これが今の広小路である。

1993年6月1日14:00

酒場「大甚」のオヤジさんと。「綺麗になったことは評価できるけど、自分たちのつくった街灯や敷石を撤去されてしまったのは、少し寂しい気がする」。「自分たちがかつて提案した『サントピア計画』も、これで立ち消えということかなあー」。

広小路の人たちは、これまでかなり積極的に街づくりをしてきたようだ。以前、広小路通りの中央分離帯にあったネギ坊主のような街灯や煉瓦調の敷石やシャッターの壁画は、広小路の商店街の人たちが自主的につくったものだったのだ。それから広小路には「サントピア計画」なるものが20年以上前からあって、街からの提案として、行政に投げかけていたのだった。

今回の町並みの改修は、こういった人たちの声に応えるものではなく、逆に、自主性を蝕むものであった。その上、今後、街の側からの積極的な街づくりの意見は、発言しにくい状況となってしまった。

住民の夢や自主性を奪い取った道。これが今の広小路である。

広小路は、城下町の成立の当初から、繁華街となりにくい構造であったという。「お上」が、城を中心に南北に通る道に出入口をつけさせたため、東西に通る道は、ほとんど町名がつくような街には発展しなかったというのである。そんなハンディを背負った広小路が、「お上」や行政が意図しないまでに、巨大な繁華街となり、名古屋を代表する通りとなることができたのは、何故だったのだろうか。

1993年5月31日 11:00

名古屋市役所資料室にて。ここに古い名古屋の地図がある。武士の町と町人の町、「支配するもの」と「支配されるもの」の境界線として、太い線が一本、真横に引かれている。それが広小路である。

「支配するもの」と「支配されるもの」の確執を、つねに意識しなければならなかった街。それが広小路である。

1993年5月21日 11:10

広小路の商店街にて。「私は年寄りだで。若い人に聞いたってちょ」。「ここは、だめ。上の人を通してくれな、何も教えれん」。「今、忙しい」。今回の調査に当たって、最初に広小路で、出会った人たちの声である。

当初、「自分の街に無関心だなあ」と聞いていたが、これは、彼らなりに、「この街は自分たちがつくってきたのに、余計なことをして・・・」といった、行政に対しての意地を、無言のうちに表現していたのではなかったのだろうか。

「サントピア計画」にしても、何もしない行政に対する、意地みたいなものを感じる。

広小路は、「支配されるもの」の「支配するもの」に対する意地によって、自主的につくられた街だったのだ。それに対して「支配するもの」は、この発展に目を付け、笹島に駅をつくり、市電や地下鉄を通し、屋台を廃止して、街の人の目をごまかしながら、管理しやすくしてきただけなのだ。今回の町並みの改修もその延長線上でしかない。

「支配するもの」でなく、「支配されるもの」がつくった街。それが広小路である。

1993年5月29日 18:30

広小路のとある酒場にて。「うちの店は変わらないことが売りなんですよ。値段もね」.と言う店のニーちゃんは「昔は街が迷路のようになっていて、とんでもないところへ出られて楽しかった」と広小路の思い出を語ってくれた。

「長年ここに来ていると、知り合いがいつの間にか、あの世にいって、寂しいもんだ」と言ラ枠なジイさんは「屋台のあるころは、広ブラといって、仕事の後によく歩いたもんだ」と広小路を語ってくれた。それから、ブルーブックを片手に、アイナメの煮付けをつつく旅行者がいるかと思えば、若い者を毅然と叱る、何十年も広小路で生きてきたバアさんがいるし、競馬談義に花を咲かせる親子三代もいる。

そこでは、表層的で、単一な外の景色とは対象的に、多様で自由な文化が醸し出されている。それはまさに、連続した時間(歴史)のみが生み出しうる、ある種のルールに則った、独特の味わいを持つ「広小路に生きる」光景であった。多様な価値観の混ざり合ったこの場こそ、本来あるべき広小路であった。

「広小路に生きる」人たちが、時間をかけて作り上げてきた、「街」の姿であった。もう一度いラ。「都市計画なんて要らない」。「都市計画」のお世話にならなくても、広小路は、内在する力で、いくらでも面白くなっていくことができる。個性的で多様な文化をすでに持っているのだから、お仕着せの「都市計画なんて要らない」。「支配されるもの」の意地をもう一度、お見せしょう。

(おおつか・ひろまさ/スタジオ・イカルス)