エレベーター

誰もが当たり前のように利用しているエレベーター。5階建て以上の建物だと、大抵目にすることができるはずです。このエレベーター、いったい何時頃からあったのでしょうか?

昔のモノクロの映画なんかに、箱で囲まれていないむき出しのエレベーターが登場してきたりしてますよね。エレベーターと映画、どっちが古いのでしょう?

エレベーターが登場したのは、1868年。一方、世界で最初の映画上映が、1895年ですから、エレベーターは、映画の登場までに30年程のキャリアをつんでいたことになります。映画の中に登場する、当時の新しい建物には、きっと当然のようにエレベーターが取り付けられていたことでしょう。

このエレベーターのおかげで、高層建築物の設計が可能になりました。最初の高層建築物がシカゴに建てられたのは、1885年のことです。

深夜+1+DS

「深夜プラスワン(深夜+1)」という、いにしえのハードボイルド小説があるのだが、その中で2台の車がクローズアップされている。1台はジュラルミンのボディーを持つロールスロイス。もう1台は、緑色の血液の流れているシトロエンDSである。この作家は、他の作品でも機械ものののディティールを、上手く表現しているが、ここでは、まったく性格を異にする2台を登場させることで、作者の自動車に対する観察力を感じさせる。無機質に徹した車と、どことなく有機的な車である。

「シトロエンDS」というのは、以前、今井美樹のビデオクリップ(「プライド」でしたっけ...)とか、あるいは「鉄腕アトム」にも登場していて、どことなくオブジェ的要素が強い車である。

しかし一方で、パワーステアリング/パワーブレーキ/パワーギアシフト/パワーライト?(ハンドルを向けた方を照らす)/自動姿勢制御(コーナリングやブレーキ時に大きく姿勢を変えない、したがって制動距離が短くなる)等を、LHMという緑色の血液によって行う車として、1955年に登場しており(この方式は、改良され現在でも使用されている)、40年以上前のシステムが、現役でいられるほど先進的な車でもあった。

未来の車として、機能に相応しい外観を与えられたこの車が、40年たった今でも、「未来」を感じさせてくれるのは何故だろう?

30年前に作られた「2001年スペースオデッセイ」も、今でも「未来」を感じさせてくれる。

マーケティングなどおかまいなしに、突き抜けた個性を持たされた存在...だからなのだろうか。

「マイクロタービン」

昨日話した「マイクロタービン」。これはエネルギーと環境破壊の関係を考えると、とても魅力に富んでいる。このシステムを使った市営バスもすでに走っているそうだ。

ハイブリッドも素晴らしい考え方だと思うが、有害物質をまき散らしやすい低速時に、内燃機関を使わなければならないという問題がある。

電気自動車には、充電時間と充電容量の問題の他に、昨日話した「エネルギーロス」の問題がある。

そうなると、自ら一定の燃焼効率を保ちながら、安定して電力を供給し続けながら走る「マイクロタービン車」は、とても環境にやさしいシステムといえるかもしれない。

ただ、バスに付けているということは、かなり大きなものだろう。小さくなる可能性はないのだろうか? ちょっと詳細を調べたくなる話である。

エネルギーの行方

先日の日経新聞で、「マイクロタービン」が紹介されていた。これは、アメリカのベンチャー企業が開発した小形の火力発電機で、「人の背丈ほどの冷蔵庫の大きさで、5世帯分の家庭用電力を賄える。燃料は天然ガスなどで、まとめ買いの価格は1台2万5,000ドル(約290万円)。」とあった。また、「水力発電所の
1/6の費用で済む。」ということだ。

CM 等では、オール電化住宅が安全ということであるが、緊急寺のエネルギー確保のことを考えると2系等のエネルギー供給源がある方が望ましいと思う(今の所、電気とガスですが・・・)。

ガス供給ラインの安全性も高まっていて、最終的に、「安全は器具を使う人間の問題」となってきているとするなら、ガス供給によって電気設備を使える「マイクロータービン」は面白い存在となる。

なにしろエネルギーを電気の形で搬送するのは、ロスが大きすぎる(以前は50%ぐらいロスしていたように思う。今はもう少し高率よくなっているとは思うが...)。その点、ガスでの搬送は、ロスが少ない。(そういう意味では、電気って環境に優しくないエネルギー媒体なのかもしれない。)

もっとも、ガス供給による地域発電の話は、10年以上も前からあって、モデルケースもチラホラ現れてきているが、日本の場合電力会社による圧力が一番のネックとなってきた。

電力の市場開放が進みつつある現在、「マイクロタービン」は、「ソーラー発電」より現実的な方法となるように思う。

田園都市

昨日の「環境と人間」で、「家の近くの田んぼのある風景」を選んだ学生がいた。名古屋から電車で4~50分程離れているだろうか...以前は田んぼと畑ばかりであったと思われる都市近郊の新興住宅地である。開発の速度は緩やかで、住宅密集地区を囲むように田園風景が続いている。いずれは、住宅が増えてしまうかもしれないが、現在は偶然にも、「田園都市」となっている。

「田園都市」というのは、前世紀末に、人間らしい生活をテーマに考えられた、一種の理想的住生活の提案である。発祥の地はイギリスであるが、日本でもその影響を受け、田園調布などが計画されたと聞いている。

学生の住んでいるところは、計画的なものではなく、あくまで偶然の産物であると思うのだが、写真を見せてもらった限りにおいては「田園都市」となっていた。ある意味、現在の日本の経済のバランスは、こういった副産物を生み出しているのかもしれない。

環境と人間

専門学校の1年生の最終課題として「人間と環境」というテーマのレポート提出を求めています。自分が今まで影響を受けたであろう環境を思い起こし、その中から自分なりのテーマを探り当てることからスタートしました。ここでの「環境」というのはとても広い意味で捕らえることにしていて、いわゆる「環境問題」といった場合の「環境」に限定していません。

したがって、ある学生は「父親を強く感じさせてくれた仕事場」をテーマとし、ある学生は「ペットが自分に与えてくれたもの」をテーマとするなど、意識の持ち方は様々です。

学生の話などをいろいろ聞いていると、結構自然環境に恵まれている学生がいることに驚きました。沖縄の海で7m素潜りをしていた海人(ウミンチュ)の孫娘とか、ミニ・ムツゴロウ王国さながら、動物に囲まれていた女の子とか...。話を聞いているこちらも、ワクワクしてきます。そういえば彼女達は、「環境問題」をテーマにした授業なんかにも、敏感に反応していました。

都会で育った大人たち(私を含めて...)よりも、はるかにダイナミックに環境のことを考えてくれそうで、なんかホッとするものがありました。

artの可能性 -その2-

「art」に技術とか技法という意味をくみとるのは、例えば、「遠近法」なんか考えると分りやすいかもしれませんね。あれはすごい技術的発明ですよね。

遠近法の発明によって、街の作り方さえも変わってしまいます。中世都市のどこか俯瞰図的な町並みに対して、ルネッサンスの街は、人間の視点の高さからの遠近法を意識した町並みとなっています。道も建物も広場も、そこに作られているものは全て、人間の視点の高さを意識しています。神の時代から人間の時代へと移り変わった、近世らしさが感じられます。と同時に、人間らしさを表現するのに不可欠だった「遠近法」は、その時代の必然的発明だったということを感じさせてもくれます。

現在の必然的発明は、何なんでしょう?

3Dやバーチャルリアリティーを含めたCGの世界なんてどうでしょう? 多様化する価値観の中から答えを見つけ出す手法として考えるのなら、現在の必然的技術かもしれませんね?

確かに、最近コンピュータを使ってデザインされた建物の中には、以前にはなかった形態のものが出てきたりしています。そのうち、街の形も変わってくるかもしれませんね。

artの可能性

英和辞典で「art」を引いて見ると、次のように書いてあります。

1.芸術、美術 2.芸術作品、美術品 3.芸術の一部門(一様式) 4.(しばしば建築を除く)美術 5.美術的技法を用いるもの 6.さし絵、カット 7.技法、術、要領 8.(特殊技術を必要とするような)職業 9.特殊技術、技能 10.学問、大学の学部の一部門(特に美術・人文科学) 11.人文科学 12.(天然・自然に対して)人為、技巧 13.こうかつ、ずるさ、手管、策略 14.(ふるまいなどの)不自然さ、作為、わざとらしさ 15.術策、策略 16.(古)学問、学芸

いかがです。結構面白いでしょ?

人間が、本能以外の行動(意図的な行動)をとると、それは「art」ということなのでしょうか...?

月の名前

今日から冷え込むそうですが、 星はとてもきれいに見えています。月も満月に近い状態のようです。

月は色々な名前を持っていて、満ち欠けの状態から、新月/三日月/半月/満月、などと呼ばれますが、弓張り月/望月(もちづき)/弦月(げんげつ)/上弦/下弦など、少し細かく形態を示した呼び方の他に、十六夜(いざよい)/立待(たちまち)/居待(いまち)/臥待(ふしまち)/更待(ふけまち)/有明(ありあけ)などと、月の形態とこちらの状態をリンクさせて呼ぶ呼び方もあったりします。

月はたった一つしかないのに、見事な表現だと思いませんか?。

「はじめに言葉ありき...」ではありませんが、名前が付けられて、はじめてその存在が認識されることになります。最初に名前を付ける人には、とてつもなく大きなイマジネーションが必要とされるわけですが、そのおかげで、月は幾つもの命を与えられました。

そしてまた、名付けた人の人柄によって、そのものに与えられるイメージは、決定されることになります。「いざよい」に「たちまち」...なんとなく、名前を付けた人達のキャラクターが彷彿としてきませんか?

名前は今もドンドン誕生しています。新しいものが誕生すれば当然ですし、新しい考え方に対しても名前が付けられます。それはやがて一人歩きしはじめて、さらに成長をしていきます。

「バリアフリー」にしても「エコロジー」にしても、あるいは「インターネット」にしても、必要とされる概念として誕生し、成長を続けているのでしょうね。

カルカッソンヌ

以前訪れたカルカッソンヌには、城壁に囲まれた中世の町が残されている。現在の市街地から15分ぐらい歩いただろうか....川のむこうの小高い丘に、石の壁で囲まれた、夢のようなお城が見えてくる。

その石の壁は、近付くにつれ、ディティールを表し、現実のものとなる。ある部分は崩れ、ある部分は積み直され、それらが歴史の一部であることを否応なく伝えてくる。積み上げられた石の一つひとつが、歴史を語るものであると分かってくると、訪れた人は、その一つひとつの石を、直に触れなければならないような、義務感めいたものを感じるかもしれない。

石の積み方は、様々である。戦争によって崩れ、急いで積み直した部分は荒い。その時の城壁内の慌てた様子を想像することもできたりする。

歴史の教科書に書かれていることは、本当に一部のことなんだと実感する。

言葉や文字で伝えられないことを、そこではその城壁が伝えてくれている。そして人々は、それらを見て、歴史を学んでいく。こういった歴史を学ぶ場が、今の日本の何処にあるのだろうか...と考えたりもする。一般的に、日本では歴史感覚が育ちにくいのかもしれない...だとするなら、モダニズムもポストモダニズムも、本当の意味で理解されていないのかもしれない...。

カルカッソンヌの城壁の内側では、いまだに数千人の人が生活をしているそうだ。