現在、私が会長を務めいている学区の子供会で、老人会と一緒に「世代間交流会」を11月3日に開催しました。
その時の様子を、こちらで文章にしましたので、よろしければご覧ください。
http://kyocho.blog.so-net.ne.jp/2009-11-07
現在、私が会長を務めいている学区の子供会で、老人会と一緒に「世代間交流会」を11月3日に開催しました。 車いすで買い物、お出かけ8月3日(土)目的地:大須観音 車椅子の操縦は、意外と難しい。なにしろ、少しでも傾斜があると、タイヤがそちらにとられてしまうので、そんな時は思ったように進めない。巾員4mとか6mの、歩道のない道路は、端のほうの傾斜が急で、車輪を片方だけ回転させて、丁度いいかな...という感じで、これがちゃんとした歩道のある幹線道路に出ると、状況が劇的によくなるのか...というとそういうわけでもない。ちゃんと雨の流れる方向へ、車椅子も流れていこうとする。段差解消のために付けられた斜路も、なかなかの曲者で、斜路に対して角度を付けて横切ろうとすると、車輪があらぬ方向へ持っていかれる。交差点などの複雑な斜面では、予想も付きにくく苦戦することになる。大須のアーケードの歩行者専用で、道路の真ん中に敷かれた滑り止めのカーペットの上を堂々と進んだときが、一番具合がよかった。 地下鉄の利用は、事前にエレベーターの位置が分かっていないと苦労しそうだ。私は、あまり苦労をしたくなかったので、御器所の駅でしつこいぐらい駅員さんに聞いたのだが、とても親切で誠実に対応してくれる。こちらは、本当は足が動くのだから、妙に恐縮した気持ちになる。こういったことは、途中のコンビにでも経験していて、店員さんどころか、お客さんにまで扉を開けてもらった時には、「車椅子にとってこの扉はあけやすいのか」を実践しようとしていた私は、ちょっと困った顔をしていたに違いない。その点、大須のレストランの店員さんは、そういったことには無関心で、こちらが気を使うことはなかった。無関心というのは、不親切ということではなくて、車椅子のスペースを空けるためにテキパキと椅子を片付けたりして、やるべきこと(やってほしいこと?)はやっている。ただ、そんなに特別扱をしないで、「そちらがよければ..」的な、なんか手慣れた感じを受けたりもするのだ。車椅子4台の御一行(+介助4人)に対して、普通に対応できるのは、なかなか素敵なことだと思う。 食事はバイキング形式のものを選択し、介助者役の人に料理を持ってきてもらうことにした。これはどんな料理がテーブルに並ぶのか、不安と期待の入り交じった数分を経験するのだが、彼女はよく気が付き、3度に分けて料理を運んでくれた。まず全体的にいろいろちりばめて、それから主食の意向を聞いてテーブルへ運び、食べ終わったら、追加とデザートの希望を...という具合で、このやり方は、とてもよいと思った。こうしたよく気が付く人とパートナーを組めたことに感謝したい。言うまでもなく、パートナーによっては、こちらの希望を遠慮なく言えなかったり、親切の押し売りを感じたりする可能性もあったわけで、これは、車椅子で出かけるときの重要なポイントだと思う。そのことは、一緒に行動したグループにもいえる。半日心地よく過ごせたのは、このチームのよい雰囲気に負うところが大きい。 一足早くチームを離れることになった私は、帰り道、大須観音の境内を横切りながら、敷石に砂利が転がり、どこにも斜路がないことを再確認した。私の愛すべき7人の仲間たちは、その後どう乗り越えたのか心配である。 最後になってしまったが、最初に与えられた課題、「人の動きや視線」であるが、地下鉄の車内で多少感じることがあったものの、全体を通して気になるほどのものではなかった。それより、先にも書いたが、「親切」を感じる事のほうが多かった。御器所の駅には、他にも車椅子関係の施設があったりして、手慣れた対応を感じ、上前津の駅では、エレベーターが設置されて間もない感じで、みんな張り切っている様子もうかがえた。ただ、こちらとしては、そんなに特別なことを期待しているわけではないので、もう少し気楽に対応してもらっても...とは感じた。しかし、こんなことが言えるのは、素晴しいチームに恵まれたおかげで、「一人で30分で大須観音へ行きなさい」などといわれたら、あっというまに絶望的な気持ちになって、周りの視線に敏感に反応していると思う。 街づくりは、一つの視点から行なえるものではない。 高い理想、ち密な思考。そしてあつい情熱を必要とする...はず。
現状2002年10月3日の中日新聞夕刊を見て、少し驚いた。
私が現在住んでいる、愛知県大府市の共和という場所は、30年前ぐらい前からコミュニティ活動が盛んなところで、その象徴的な存在として「太陽と緑の道」がある。今回私が参加した「歩け歩け大会」というのは、ここに端を発したイベントである。 参加者約160名 半数は小学生、残りの半数は高齢者と父母といったところだろうか。。、若者の参加は少ない。また、私のように個人での参加も少なそうだ。距離は、6.5キロ。休憩を含め2時間弱の行程は、楽しみながら歩くのに適切なものだと思う。ゴール後の振る舞いぜんざいやビンゴゲームも参加者の楽しみになっている。 ただ、簡単なマップなどがあって、ルートの説明や地域の解説などがあると、アイデンティティの高揚につながると思う。そのためには、予算や毎年のルート設定など、準備に負担がかかることになるが...
1975年4月に、共和地区・長草地区のコミュニティの中心、共長公民館がオープンし、それにともなって様々なイベントが企画されていきました。 「太陽と緑の道」もその一つ。大晦日に共和・長草地区のお寺や神社を巡り、除夜の鐘を突いて初詣でをすることからはじまったそうです。公民館をスタートし、円通寺・長草天神を巡って戻ってくると、温かいぜんざいや甘酒が振る舞われたとか。 最近は、車の数が増え、夜間の歩行は危険だということで、中止されてしまいましたが、交通整理や指導を行う近隣住民のボランティアに支えられながら、現在、11月の「歩け歩け大会」に受け継がれています。
皆でこの道のことを考えたら...もしかしたら... 大府の街には歴史がない...とよく言われます。確かに目立った史跡はないかも知れません。でも、良く調べてみると多くの古窯や土器、中には古墳も発掘されているのです。ただ私たちが意識していないだけなのかも...と思ったりもします。 大府の駅前は、東海道線開通以前、武豊線開通後の、明治22~3年頃に遡ることができます。もちろん今の建物は昭和のものですが、その昭和の思い出さえも消えかかっていますよね。少し彎曲しながら繋がる店づくりに往時を忍ぶことができます。 意識して残そうとしない限り、歴史は築かれていかないのではないでしょうか。 もしかしたら... 私の住む大府という街は、下のような特徴を持って、大きく変わっていこうとしています。 ●名古屋まで10~15分という通勤圏でり、新たな分譲住宅・マンションが建設されている。 これらの変化は、不況という社会状況下では、経済的には幸せなことですが、それ以外の部分では、いろいろ考える必要があります。 大府の街は、20年以上前から、独自のコミュニティー組織を持ち、活動を続けてきたようですが、近年の環境の変化に、既存コミュニティーが対応しきれず、自治会の参加率が低下し、活動も停滞気味になっています。多くの流入人口が予想される今後は、さらにこの傾向が加速されていくのではないかと懸念されています。 私は、子供や家族と生活する場には、時代をこえて共有していける「場」が必要だと考えます。そのためには、生活する場の風景は、緩やかであるべきで、場合によっては、変わらない部分も必要だと考えます。 人が風景によって得る共通感覚は、家族だけでなく、地域に住む人達の考え方のベースになっていくはずです。あまりに急な風景の変化は、地域と結びついた個人の考え方のベースを失わせ、家族や地域社会との共感を抱きにくくしてしまいます。 こうした風景を残していくためには、様々な知恵や手法が必要です。より広い世代や様々な環境の人に共感を得られるやりかたを、考えていかなければなりません。グループホームや保育室、今回提案した食のイベントや食の広場などもその一つかもしれません。また、現有財産の掘り起こしも必要です。駅前の時代に取り残された町並みや古びた散策ルート、汚いため池や用水などは、視点を変えることで大きな財産になりうるものだと考えています。 そしてもっとも大事なことは、一緒に考えてくれるよき仲間です。こうした考えを共有できる人達との接点を持ち、勉強会を開くことから始めたいと思います。 ここでは、街づくりに対するかかわりを紹介していこうというものです。まだ始まったばかりですが、活動をできるだけ紹介していこうと考えています。 大府市は、現在のスタジオ・イカルスの所在地であr、私の生活の場でもあることから、関わっていきたいと考えました。 名古屋市栄5丁目は、私が教えにいっている専門学校があり、そこでの授業の中で街づくりの活動ができないかと考え、試行錯誤しながら進めているところです。 中区松原のクスノキの伐採問題は、新聞記事によって知り、「そんなバカな...」というところからスタートしました。 愛知県人にやさしい街づくりの講座で知り合った仲間達との活動も紹介できたらと思っています。 昨年まで教えていた「豊田高専(国立豊田高等工業専門学校)」では、「バリアフリー」と「豊田市への提案」をテーマに授業を行っていたので、それも一部紹介します。
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