部屋に何かを飾る場合には、それが何であれ、人々はその飾られる物の持つ意味を無視することはできないと思います。それが作品として認識されるものであるならば尚更です。その作品の背後にあるそれぞれの意味を吟味した上で、共感できる物だけを飾っていくことになると思います。
同様に、街に何かを飾る場合も、それが何であれ、人々はその飾られる物の持つ意味を無視することはできないと思います。飾られる物に、いったいどんな意味があるのか? 誰の意思によって、どういう理由で置かれたものか? 説明を求められた際には、答えなければならないでしょう。
今、街に作られるパブリックアートの中には、「何故ここに、こんな形のものが?」と思うものが少なくありません。なんとなく工事が始まり、いつの間にかその物は出来上がっている。そこに、行政や作家といった、設置する側の「顔」が明確に見えてくるのでしょうか。
ここに「 de-sign」という概念があります。この概念の下では、物の形は、明確な条件の下に成立するものと考えられています。それはつまり、設置する側の意思が明示され、はっきりとした「顔」を持って、見る側にメッセージを伝える行為であるということを意味しているのだと思います。
基本的に優たデザインとは、それが建物であっても、車であっても、あるいは食卓の小物であっても、ある必然の上に成立しているものだと思います。そこには、そのものが存在すべき条件というものが必ずあるはずで、その条件を満たしていなければ、そのものは誕生しなかったでしょうし、条件が大きく変化していけば、そのものは消え去っていくたぐいのものだと思います。
でも、そんな洒落た街の通りで、雨の日に、建物から傘をさしながら出てきた若い女性が転びそうになっていたのを見かけました。ちょうど建物側の滑りにくい床から、歩道の少し滑りやすい床に体重を移動させる時に、傘をさそうと、意識を足から離してしまったことが原因のようにでした。
道とは本来、そこを利用する人達のもので、その人達が不便だと思うことを我慢させるものではないはずです。そこに住む人とかけ離れた発想によって、適当に街を変えられていったのではたまったものではありません。そして本来のデザイナーや建築家の役割とは、そこに住む人達が気分よく利用してくれるような、生活の営みと営みの間のインターフェイスをつくり出していくことだと思います。