片目のジャック

 今日、右目の手術(そんなに大袈裟なものでも、ないのだけれど..)を受け、片目の状態...ジャックは、別に関係ありません(^_^; つい、なんとなく...。
 こうした状態で、半日過ごしてみると、いかに不便かが、よくわかる。
 こうしてキーを打つことは、まあ、しだいに慣れてきて、なんとかなるのだが、道を歩いているときに、不安を覚える。
 右方向の視界がないため、車の接近に気付かないことが、二度ほどあった。
 それから、歩行者の存在も、なかなか恐かった。距離感がとれず、動態視力が落ちているのだが、回りは、それと知らず、こちらをすり抜けようとする。
 そして、バリアフリーのことを考えたわけです。
 本人が、気を付け、注意深く行動したとしても、回りがそれに気付かず振る舞ったとしたら...多分そういうことが、ほとんどなんだと思うけど。
 元気のいいものほど、大胆な行動をとって、周りに配慮しない...そりゃ、そういう体験がないんだもの、わからないよな~。
 どうでしょう、明日1時間でもいいから、片目をつぶって生活してみるというのは、いかがなものでしょう...多分、これからは、もっとやさしい気持ちで、街を歩けると思いますよ。

風土..から..

「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。だからここでは自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない。」

これは、和辻哲郎氏の「風土」の序言です。この本は、大学の構造の教授に薦められ、ゼミで読み会をしたこともありました。

その教授は、「禅」を行い、道元禅師の書の現代訳にも協力者として、名前を列ねていました。
授業は厳しく、「教室は道場だ」というのがモットー。

「学生運動盛んな時にも、学生をくい止めにいった。」という話も聞きました。

あまりに頑固で、学生に敬遠されていたところがあったみたいです。

私は、結構その頑固さが気に入っていて、2年の時のこんな時期に、ゼミの忘年会を開き、教授も招きました。学生と飲むのは、はじめてだったそうです。調子に乗った私達は、ディスコにも行き...踊りました。

私は、3年から計画系のゼミに移ってしまい、1年間だけのつき合いでしたが、数年後の退官パーティーでは、ちゃんと覚えていてくれました。

もう亡くなられて何年たつのでしょう。忘年会シーズンの、こんな時期になると、その教授のことを思い出します。隣のテーブルの女の子達と、教授を囲んで踊った時の笑顔は、あの場にいた私達しか知りません。

そんな訳で、今日、私の机のうえには、「風土」が広がっています。

携帯電話とインターネット

携帯電話など、もうめずらしくもない存在だが、さすがに4人一度に、電話で話している光景を見ると、少々妙な気分になる。正面から2人、左右に一人づつ。それも年齢層がバラバラで、正面手前は、(家族にかえるコールをしているであろう)中年男性。正面奥は、(友だちと話しているであろう)女子高校生。右手には、(待ち合わせをしているであろう)20代前半の男性。そして左手からは、スーパーの袋を下げた中年の女性。

ここ御器所(ごきそ)は、名古屋の中心に比較的近いが、ビジネス街ではない。それぞれの私生活を営む人々が、それぞれの使い方をしているという光景なのではあるが....

以前、ある人が、アメリカ人のコミュニケーションはグローバル性を持ち、日本人のコミュニケーションはパーソナル性を持っていると言い、その例として、アメリカでのインターネットの普及率と、日本での携帯電話の普及率を比較しながらあげていたが、こうした光景を見ると、そのことを、実感せざるをえない。

車窓の風景

学校の行き来に、自動車を利用している。

午前の2限目なので、それほど渋滞することもなく、 だいたい片道40分ほどの快適なドライブである。

名古屋の町中を抜けて、郊外にでると、とたんに人の気配がなくなる。途中いくつかの町を抜け、豊田市に入るのだが、あまり歩いている人は見かけない。もっとも、町の中心街とは遠く離れてはいるのだが、住宅街はあるし、大型の商店だってある。

見かけるのは、通学途中の大学生と道路工事で働く人達ぐらいだ。
皆、車で移動している。車はいやというほど走っている。

ちょっと不思議な光景である。

ジョンの魂

もうすぐジョン・レノンの命日です。
リアルタイムで彼の音楽に接することができて、とても幸せな世代だったと思います。
今夜は、彼のCDを聞くことにします。
それでは、おやすみなさい。

シトロエンとアップル

 私の愛車は、2CVで、愛コンピューター(?)は、マッキントッシュです。
 私にとって、シトロエンという会社とアップルという会社は、イメージ的に重ね合わさる部分が、結構多くて...どんなもんでしょう、シトロエン(とくに旧い..)に乗っている人のコンピューターは、マックが多いんじゃないですか?(よかったらメールでお知らせ下さい)
 どちらも、一時は隆盛を極め、そして今は...ちょっとマイノリティー...。
 ただ、使っているものにとって、愛着を感じずにはいられない存在となっていく...もう、他のメーカーのものでは、どうにもならないほどの。
 それは、その「もの」を生み出す時点で、大勢の人の心(あるいは、「思い」)が関わってきた証拠なんだと思います。
「もの」は、人の「思い」の結晶でなければならない。
 デザイナーとして、建築家として、「思い」のある、「ものづくり」をしていきたいものです。

建築史授業

専門学校の建築史の授業で、KJ法を使ってレポートをまとめる、ということをやってます。

18・19の学生にとっては、少し辛いかもしれませんが、熱心にトライしている姿を見ると、明るい未来を感じたりもします。KJ法は、いろんな局面で、とても効果的で役立つ手法となると思います。

ただ、卒業して、その技術を生かせる職場(デザイン/建築系の)は、今の日本には、あまりないのかもしれません。

若く意欲に溢れたクリアティビティーを押さえ付け、その会社のシステムに染まらなければ、社員として認めてもらえない...とするなら、それは悲しいことです。

レポートは、用紙(デジタルだけでなく)での提出を認めているので、このホームページでの紹介は、難しいかもしれませんが....

他校では、バリアフリー提案の授業で、KJ法を使っています。
「ようこそ計画論へ!」
よかったら、見てみて下さい。

*2001年度でリンク閉鎖。こちらからご覧ください。

シタール演奏会

今日は、シタールの演奏会に誘われたので、ちょっと見てきました。

シタールというのは、インドの弦楽器で、僕達の世代ですと、「ビートルズ」のジョージ・ハリスンが演奏したことで有名なんですが...(若い人は、知らないかもしれませんが)

全部で18本の弦があって、そのうち12本は、共鳴用です(指で弾いたりせず、他の弾かれる6本の弦の音に共鳴して、一種のエコーのように音を引き延ばしていきます)。残りの6本の内、メロディーを奏でるリードの弦は、一番下の1本だけで、5本は、メロディーに合わせてかき鳴らされます。

結構、複雑な構造らしく、弦楽器の原形として世界に伝搬していって、日本の琵琶なども、これがルーツなどといわれているそうなのですが、伝搬地のものは、シンプルな構造となってしまったようです(琵琶は、5本の弦となってしまっている)。

また、弦に役割を持たせるといった考え方など、カースト制との関係を感じさせたりして、インドらしいのかな~などと思ったりもしました。

 楽器は、社会と歴史の具現物?

ちなみに、実際の演奏は、ビートルズのイメージとは、随分違ったもので、もっとナチュラルな印象を受けました。

演奏者の石原氏は、ネパールにおいての「エベレスト街道水道工事基金」の代表をされていて、募金を求めています。その主旨に賛同される方は、ご協力をお願いします。
くわしい内容に関しては、このページをご覧下さい。
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*2002年リンク閉鎖

デザイナー

 名古屋市が「デザイン都市宣言」をして数年の時が経ちました。しかし、「デザイン」という言葉の使われ方になにか物足りなさを感じます。「ランダムハウス英和大辞典」によると「デザイン」には、
 1. 設計する、立案する。2. 図面をかいて芸術的につくる。3. 予定する、あてる。4. もくろむ、企てる。5. 志す、意図する。6. (古語)印などで示す。といった意味があることが分かります。
 もともと、「自らの意図を何らかの方法で示してやる」といった意味を持っていたようです。とするならば、「デザイン」とは、形態に関しての言葉というよりも、対象に対して、何らかの意図を持ち、それを何らかの方法で示すといった、全体的な「プロセス」を指した言葉だと考えた方がよいように思います。
designer.gif しかし、現在の建築やモニュメントなど「デザイン」という言葉が多く使われる分野においては、形態は作っても、その「もの」が存在するまでの「プロセス」が明示されずに、ブラックボックス化されてしまっている場合が多いような気がします。そしてそれは、「デザイン」の持つ本来の意味が、誤解されて伝わってしまう原因となっているのではないのでしょうか。
 建築にせよモニュメントにせよ、あるいは、ごみ箱にせよ、その「もの」が存在する以上、(たとえ作る側が無意識であっても)そこには「プロセス」が存在し、常に「デザイン」も存在していると思います。ただ、よい結果を得るためには、意識されたよい「デザイン(プロセス)」が必要だということなのだと思います。そして、意識的にこれらの「プロセス」を処理していくことが、我々デザイナーに課せられた役割なのだと考えています。

「風土」について

 十代の頃、和辻哲郎の「風土」を、一種の運命論と考えてしまって、自分が「日本」という杭に結わえ付けられてしまったような気分を味わったことがありました。
 ナショナリズムの時代においては、国家や民族といった明確な境界が、強く求められることもあるでしょうが、現在の日本の中にも東南アジア系や南米系・中近東系の日本人が誕生しているわけで、運命論的な日本らしさだけでは、日本を説明できなくなっていることも確かでしょう。
fudo.gif つまり、現代における「日本らしさ」とは、先入観によって定義されたものではなく、もっと個人に立脚して考えられるものになっているという考えたいわけです。
 「日本人だから・・・」とか「日本の国はこうだから・・・」といった枠を作ってしまう考えよりも、自分の日常を見つめ、借り物ではない「自分らしい表現」を理解することが、「日本らしい表現」の基盤ともなるだろうし、「日本」の可能性を広げ、未来に対する希望を広げてくれる気がします。
 建築やデザインに関しても、一人一人が日常を意識化し、運命論的思考の束縛から自由になった時、本当の意味での文化的背景を持った、建築が可能になるのだと思います。