大きなテーブルのある家 計画(模型)

大きなテーブルのある家 計画(模型)
「大きなテーブルのある家」の初期段階の模型です。部分的な変更はなされていきますが、大きな考え方はこのままで完成に向かいます。
クライアント(3人家族)は、もともと隣の3階建ての住宅に親世帯と共に住んでいましたが、隣地が空いたことから、そこに新しく家を建て、そちらに移ることになりました。
これまでの5人での家族の関係が、こうしたハード面の変更によって崩れること無く、逆に、適度な距離感を加えることで、今まで以上の関係を築いていけるように配慮しました。
■模型も既設の建物と新築の建物との関係を考察するのに役に立ちます。(南)
PICT0086.JPG
■2つの建物の間にベランダをとることで、絶妙の距離感が生まれると考えました。
PICT0091.JPG
■大きなベランダのある西面は、既設建物側に。
PICT0083.JPG
■逆に、東の隣地側には、開口を設けません。模型では、開口がありますが、実際の建物には開口も換気口もありません。(南東/北東)
PICT0058.JPG
PICT0088.JPG
■1階は、北側の裏口から親世帯の住む既設建物に連絡していて、将来の介護への配慮もしています。(左下が北)
PICT0075.JPG
■2階の特徴は既設建物との間にあるベランダと、広間(居間/キッチン)の長さ5mのテーブル。
PICT0074.JPG
■3階には個室。子供室は階段ホールに対して開放することができます。
PICT0073_1.JPG
にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

ボーリング地盤調査

ボーリング地盤調査
住宅の場合、地盤調査方法としてサウンディング方式が多いのかもしれないが、多少コストは掛かる方法であるが、ボーリングによる地盤調査を行っている。
敷地が狭く、地形的に特殊な要因が無ければ、中央1カ所のボーリングで良く、実はコストもさほど高くならない。
あとやっぱり、目に見えない部分を、実際に見てみるというのは、納得できる。
ボーリングのセッティング
PICT0011.JPG
矢倉を建てます
PICT0018.JPG
作業開始
PICT0023.JPG
地中10mほど、細長い穴を開けていきます
PICT0025.JPG
地質サンプリングのためのケース。この中に、地層ごとの土砂を入れていきます。
PICT0031.JPG
矢倉の全体像
PICT0061.JPG
地層の土砂をサンプリングしているところ
PICT0066.JPG
にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

心を使う家

09.jpg今の時代、心を使う代わりに物やお金で解決しようとしてしまうことが多いのではないでしょうか。便利になれば、人間関係が希薄になるのは当然です。
それは、住まいについても言えることで、汚れにくく、手入れが楽になれば、それだけ住まいと住み手の関係は、希薄になっていきます。
昔の人達は、楽をしない代わりに、楽しくする工夫をしていたと思います。掃除や修繕が、一つのイベントになってしまうように...。お祭りなんかも、そういった要素が大きかったのではないでしょうか。田植えや収穫は重労働です。でも、それを楽しくやりたい。場合によっては、普段以上の力を出したい...。そんな知恵を感じます。住まいについても同じで、重労働を楽しみに代える知恵を持ちたいものです。
心のエネルギーを節約することが便利だと思ってしまっている現代、もっと大切なことを失っているような気がします。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

モンゴルの祭壇

PICT0054_1.JPG先日、椎名誠氏の講演会の中で、モンゴルの家庭では、祭壇に「家族の写真」を飾っているという話しを聞きました。
モンゴルは、もともとラマ教の国なのですが、社会主義国になって、偶像崇拝が禁止された際、像に代わって、家族の写真をそこに置いたそうです。現在は社会主義国でなくなって10年ほど経ちますが、まだそういった習慣が続いているそうです。
そこに、拝むべき対象が無くなった時、どうするのか...。いろいろな選択肢が考えられたと思います。拝むことをやめてしまうこともできたでしょうし、家族の写真以外のものを対象にすることもできたでしょう。でも、そこで「家族の写真」を選んだ、ということが素晴らしいと思いました。このことが、人が手を合わせる根元的なものが「家族」である...そんなことを物語っているように思えたからです。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ/
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

「家」の役割

PIC00044.jpg至るところに神が潜んでいた時代のことを考えると、今はなんとも神様の隠れ場所が無くなっています。(神様に代わって人が潜む、物騒な世の中になってしまいました。)
家の中にも、かつては多くの神様の隠れ場所がありました。夜ギシッと鳴る屋根裏やちょっと離れたトイレにも神様は居たものです。台所にも座敷にも...
そんな神様たちは何時の間にやら居なくなってしまって、それに伴って、私たちが「家」に対して抱くイメージも、幅の狭いものになってきているようです。
機能的な部分ばかりに注目して、心の在りようから見た「家」というものが、なおざりになっているのではないでしょうか。
何か嫌なことがあった時、自分を慰めた場所が、街からも家からも亡くなっているのは、人々が自分の街や家に、居場所を求めていない...そんな気さえしてきます。
いったい何時から神様は、街や家の中から居なくなってしまったのでしょう。
日本の住宅の間取りの歴史的な変化を見ていると、あることに気づきます。
今から150年程前、日本人は今とまったく異なったスタイルの住まいで生活していました。
当時の日本の家屋には、「居間(リビング)」「食堂(ダイニング)」「寝室(ベッドルーム)」といった、機能上の名前の付いた部屋はありませんでした。
土間とか奥の部屋といった具合で。実際、一つの部屋を寝室にも居間にも使っていたので、機能上の名前を付けることができなかったのです。
一つの機能を求められた部屋は、その機能以外のことは省かれていってしまいます。一つの機能を求めらなかった昔の日本の住まいは、神様が隠れる余地が、十分に残されていたのでししょう。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

「引き隠り」と八百万の神

PICT0024.JPG「引き隠り」が社会問題になって久しくなります。外に出たがらない子供に対して、厳しい態度で臨む親が多い中、そうした子供と接するうちに、やがてある種の才能を見いだしていく親もいるようです。
引き隠る子供たちの多くは、感性豊かな子だと聞きます。豊かな感性が、情報化社会とも競争社会とも呼ばれる今の日本に対して、一種の生命に対する危機感を感じ取っているのかもしれません。
ある意味、今の日本の社会には、そういった優れた感性を受け入れるだけの、包容力が欠如しているのかもしれません。
かつての日本には、様々な価値観を受け入れるだけの、社会の多様性があったのではないでしょうか。
その昔、日本には「八百万(やおよろず)の神」が住んでいたといいます。そのことは、日本という国が多様な価値観を共存させていたことを物語っています。森には様々な神様が祭られ(トトロのように?)、神様も森の中で上手に住みわけしていてたりします。家の中にも神様は住んでいて、アチコチで見守ってくれていました。
ところが今は、明治の合祀令によって、一町村に一社が標準となり、以前の神社の1/10になってしまったらしいのです。それは考え方によっては、日本での価値観の多様性や包容力が、急速に縮小していったことを物語っているような気がします。
江戸時代までは、自分(の価値観)に合った神様に守られていた子供達が、なんか急に心細い感覚を持つようになったかもしれません。
そして今、鎮守の森が駐車場に変わり、そういった所で遊ぶ機会を失った子供達は、さらに幅の狭い価値観の世界へと、追いやられているのかもしれません。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

今見える風景

PICT0087.JPG自分が幼い頃遊んだ遊び場は、もう残っていません。昔あった公園の砂場やブランコ、シーソーは、今では都市の公園らしく、芝生とベンチ、それに舗装された通路になっています。神社の境内も駐車場になっていて、夏休みの早朝ラジオ体操の場所はなくなってしまいました。
きっと私の子供は、全く違った空間で遊ぶことになるのでしょう。シーソーの真ん中でバランスをとったり、尾てい骨をしこたま打ってひっくり返ることもなく、ブランコから飛んだ距離を競うこともなく、木から落ちたり、頭をぶつけることもなく、服を破ったりパンツまで泥だらけにすることもないのでしょうか...
今、自分の家の窓を開け、辺りを見渡して、見える風景の中で、もっとも古いものは何年位前のものでしょうか? 
京都や奈良、高山などといった、歴史的な建物が保存されている所をのぞいて、ほとんどの所が、せいぜい20~30年といったところではないでしょうか? 
都市部における風景の変化は、甚だしいものがあるのは当然としても、地方においても、バブル期以降、風景を変えてしまっていると思います。
このように、歴史的な連続性のない日本の風景は、ちょうど親と子の間に、故郷のイメージを共有できないことを、証明しているのではないでしょうか。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

「故郷」としての「home」

PICT0008.jpg「home」には、「故郷」という意味もあります。「うさぎ追いし..」 で始まるあの歌では、歌詞の1番で故郷の自然を懐かしみ、2番で故郷の人々を思い浮かべています。つまり故郷には「空間」と「人間(社会)」の両方が関係してい て、当然、過去を思っているわけですから、「時間」というものも関係しています。
そうしたことを意識して、「home」としての家を考えたとき、部屋などの空間としての故郷であり、同時に、共に生活をする人々といった意味での故郷でもあわけです。「home」はまさに、小さな故郷なのです。そしてそれは、人生において最初出会う空間であり、最初に出会う人々ということで、最も根源的な故郷と言えると思います。
「住まいは故郷」...それが、住まいを考える上で、最も大切なことだと思っています。今、住んでいる家が故郷になれば、家族や子供のトラブルなんかも、解決しやすくなるからです。
共通の感覚、あるいは、共通の感性といったものが、故郷によって培われ、それが、世代や立場を越えて、問題解決の糸口になるのではないでしょうか。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

それぞれの家族 それぞれの住まい

PICT0013.jpg家族の有り様は、その家族ごとに異なります。(あたりまえですよね。)では、なぜその住まいは、似たような間取りや同じぐらいの広さのリビング...なのでしょう。その家族の有り様が、住まいにあまり反映されていないのが、今の日本の住まい方ということなのでしょうか?
本来、多様な住まい方をすると考えられる人達を、同じような住まいに押し込めることで、様々な弊害が起きているのでは...と考えたりもします。
家族の問題、地域の問題、そして社会の問題なども、住む人と住まいとのギャップから生じてくるものもあるように思います。
家族の在り方が様々というのは、例えば、単身赴任のように、血の繋がりがあっても一緒に生活していない家族もあれば、グループホームのように、年老いてから、家族のように一緒に生活するような例もあったりします。
NHKの朝のテレビ小説「ちゅらさん」(もう終わってしまいましたが)の一風館のように、アパートの住民が、家族のように生活している場合もあります。
一風館を「家族」といってしまうのは、ちょっと抵抗がありますか? 
では、「家庭」というのは...
家族と家庭はどう違うんでしょうか。和英辞典によると、家族は、「a family;one’s people」、家庭は、「a home;a family;a household」とあります。
「家族」には、「one’s people」とあることから、人のことを言っていそうな感じだし、一方「家庭」といった場合には、「house…」とあることから、どうやら建物が絡んでいるようです。そして、「家庭」といった方が、「a family」の意味に近いような感じです。
例えば、血縁に関係なく、お互いに「family」だと感じた場合、その関係は「家族」であって、その時familyと感じるために「house」は大いに関係している...という感じでしょうか。
いずれにせよ、「それぞれの家族に合った家庭を生み出せる住まい」が必要とされているわけです。

[2002.12]

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ
7514968.gif
スタジオ・イカルスのサイト

図面を描くということ

製図を教える度に話すことなのだが、図面を描くということは、こちらに、相手とコミュニケーションをとる意志があることを示すことに他ならない。相手とは、クライアントであったり、協力者であったり、施工者であったり、その状況に応じて様々で、求められる図面の内容・質も異なってくるのだが、いずれにしても、こちらの意図を分かってね...という気持ちが無ければ、意味が無い。
この図面で、相手に何を伝えたいのか。さらに、どんな思いを伝えたいのか。伝えることが目的であって、描くことではない。
逆に、相手とコミュニケーションをとる意志がなければ、図面を描く必要はない...建築はできないが...(建築以外のものならできるものもある)。
だから、良い図面とは、決して、きれいに描けている図面のことをいうのではなく、こちらの意志が間違いなくの伝わる図面のことをいうのだと思う。それはどんな姿をしているのか...そんなことを考えつつ、今日も図面に向き合う。